大森田不可止全仕事+

ナムコ時代

ゼビウスブームで、ゲーム音楽に興味を持った細野晴臣が、ナムコと協力して出した「ビデオゲーム・ミュージック」というアルバムの中の「ギャラガ」。効果音集かな?と思わせて、曲になっていく。世間がゲーム音楽に注目し始めた頃。一流の音楽家、細野晴臣が身近だった音楽スタッフを評価してくれたことが嬉しかった。

細野晴臣がナムコの開発を訪問したことがある。新人で3時のおやつを買い出しに行くとき、玄関にガラの悪い人が数人いてちょっと怖かった。そのまま、仕事に戻り、細野晴臣に全く気づかず。後で聞いたら、私がプログラムするところを、後ろから覗いてたそうだ。なので、残念ながら面識はない。



ナムコで最初の仕事。若かったので、新人研修でゲームを選ぶとき、奥ゆかしく誰も知らないゲームを選んで、それがそのまま仕事になった。勝手にボーナスステージを作ったお陰で、ギャラガを任されることになった。ホテルなどで、ナムコのMSXゲーム10本入りのサービス機が設置されたんだけど、そのデータでは一番人気だった。MSXにしてはカラフルだったってのもあるかも。売れ行きは数万本程度。

ボーナスステージを付けたお陰で、8KB ROM で済む予定が、16KB ROM になって、若干製造費が上がったんだけど、営業は大目に見てくれた。本当、おおらかな時代。

MSXはマスター入れてから6ヶ月後くらいに発売。だから、忘れた頃に世にでる。記念に自腹で購入した。ずっとそうだけど、ゲーム業界では製作者に製品を渡す習慣は無かったな。



単色ギャラガは自分でドット絵を描いた。背景の星は、黒須一雄さんのアドバイス後3時間ほどで出来た。黒須さんと仲良くなった、きっかけのゲーム。MSX全タイトルを、MSX2に対応させる仕事もした。他人のソースコードを読むことは何故か得意だった。担当者が河野くんで、後の付き合いのきっかけでもある。



サウンドドライバのみプログラム。メインプログラマの深谷正一さんが「ボーナスステージが入らない」と言ってたので、大野木宣幸さんのサウンドドライバを改造して、データを圧縮、半分ぐらいの容量にした。大野木さんからは、少しクレーム、だけどどうしたかを説明したら納得してくれた。ナムコ開発の特徴は好奇心旺盛、本音での会話、お互いに干渉しないことだと思う。結果を出し続けてたからだろうけど、良い職場だった。これ以降、多くのサウンドドライバを書いた。ナムコのFCサウンドドライバは、退社後も長らく小沢純子にプレゼントした3タイプ✕3タイプの9種類のサウンドドライバが使われていたそうだ。

深谷さんは新人研修でゲームプログラムの基礎を教えてくれた恩人。深谷さんが急死した時、遺作のワープマンがデバッグ中。バグが3つほど残ってたんだが、半日で修正してマスター納品した。



FC ギャラガ(1985年2月15日)

ファミコン解析チームだったから、ギャラガの頃にはファミコンを知り尽くしてた。遠藤雅伸さんに言われ、編隊の膨張収縮も入れた。MSXギャラガと同じロゴを想定してたら完成間近にロゴ差し替え。優秀なナムコの法務が他社に売り渡してた「ギャラガ」の商標を百万円で買い戻してた。キャラがなかったので、「エンタープライズを削ってもいい」と言われたんだが、1キャラを単色で2キャラに使うテクニックを思いつく。後に任天堂の宮本茂さんから、「ナムコさんのお得意でしょう」と言われたテクニック。売上は200万本近く行ったそうだから、人生最大のヒット作。

スプライトの優先順をフリップして、消えないようにしてた。乱数が必要な場合は、この時は深谷さん考案の、8ビット合同法と8ビットM系列をXORする方法を使ってた。16ビット計算ができる場合は、7掛けて5足す、みたいな簡易な合同法の値を何ビットかシフトして、上のビットを使用してた。



この頃は、ゲームにエンディングって考えが無かった頃なので、終わらないように作ってたけど、検証は出来てなかった。チートして検証してくれてる動画を見つけたので貼っておく。よく止まらずに動いてるなと、自分でも感心した。




フリーの時代

ハイスコア」というファミコン雑誌の立ち上げ時は、戦略・教育・機材担当の編集者と広告営業を数ヶ月やって、商売人の編集長が博報堂から、エスキモーアイスとのタイアップ仕事として取ってきた。ナムコ時代の同期の水足が、社長をやってた「バードウィーク」のレナールに、背景グラフィックと音楽を依頼。音声合成は水足自ら手がけてくれた。「ハイスコア」って言ってるのは、元モデルで超美人の営業担当スタッフ。

今まで移植しかやってなかったのに、いきなりオリジナルゲームを作るはめになってしまった。画面分割のテクニックは、ナムコの時に発明してたので、使いたかったんだな。開発環境は、PC98にROMライターという総額30万円くらい。

キャラクターのグラフィックは、篠崎くんに紹介された若い須田くんにお願いした。ゲームグラフィックデビューなのに、方眼紙に色鉛筆で書いてもらって、私が手作業でデータ化した。太ってて、遠視だから凸レンズで可愛く見える、気の良い奴だったが、若くして数年後に癌で亡くなった。だから、思い出のゲーム。

任天堂は現金主義なので、作ってもらうのに2億円必要だった。編集長は、ビクター音楽産業に話をつけて、2億円引っ張ってきた。結局利益は7千万円ほど。先走った編集長が新しい千駄ヶ谷のオフィスを見に行ってる時、夕方、ビクター音楽産業から電話で「2億円の領収書が来て無くて、今日中にお願いします」。千駄ヶ谷のビルを、今までの言動から推測して探しまわった。奇跡的にやっと見つけて、編集長のポケットにあった2億円の領収書を表参道のビクター音楽産業のオフィスに届けた。今となっては、いい思い出かな。売上は10万本ほど。

乱数は16ビットM系列、スプライトの優先順位入れ替えは、コナミのFCグラディウス以降は、表示スタート+=素数から初めて、別の素数を加算しながら、下位5ビットを取り出す、シャッフル方式を使ってた。



作るのに3年掛かった。後半は収入がないので2日位、食事ができないこともあった。作ってるうちに、「これ 、面白いの?」って疑問になったけど、終盤は確かに面白くなった。堀井雄二さんのセンスを感じた。実現できた自分も凄いと思った。けど、8万本しか売れなかった。

一時期、発売元のアスキーでもブースを用意してもらって仕事してた。同じフロアには、ダビスタの薗部博之くんがいて、仲良くなった。ダビスタの画面分割は、いたストの影響。

次の仕事も頼まれたけど、逃げた。友達のトムキャットシステムって会社を紹介した。トムキャットは元ナムコの源平チームの会社。トムキャットが喜んでくれて、忘年会に呼んでくれたんだけど、カラオケで「宇宙のファンタジー」を歌ったら大合唱になって、気持よかったな。続編はエニックスから発売になり、30万本近く売れた。

いたストは、この時も後継のプログラマも、サイコロ操作は一切してないそうだ。「乱数のドラマ性」に、みんな気付いてたことを知って嬉しくなった。この頃は、自分で作った32ビットくらいのM系列乱数を使ってた。



いただきストリート サウンドテスト

いたストの音楽は全部ゲヱセン上野くん。多分、3倍位の曲を作ってて、塩崎剛三さん(当時、ファミ通の編集長)に却下されまくってた。仲良くなったので、彼の事を知らせたくて、裏に入れた。ビブラートの仕方も、上野くんが教えてくれた。三角波の音量調整も出来たんだが、バイアスを掛けてアンプの性能を利用するって、分かりにくいし、意図通りの音量にしにくいので、上野くんは使わなかった。まぁベース音だしね。パーカッション表示は1/60秒なのでビデオでは正しく表示されない。

1、2は方形波、メインのメロディと和音を奏でる、Bは三角波、ベースとして使う。A~Gと#はNote(音階)でその後の数字はオクターブ。赤いグラフはVelocity(音量)。Nはノイズでのパーカッション、Pは波形を任意に再生できるデルタモジュレーションって機能のパーカッション。左側のマークがドラム、右側のマークはハイハット。方形波には、ビブラートや少しアッパーな音階にする機能があるので、「~」や「+」で表示。大雑把な説明だけど。



チュンソフトの中村光一社長が、糸井重里さんに私を1ヶ月レンタルして欲しいと要請、糸井さんが快諾して、結果40日間ほどプログラマの山名学くんを手伝いに行った。当時のチュンソフトは、3本のゲームを作っていて大変な状況。弟切草の作曲担当の女性、三俣千代子さんが机の下から這い出してきて「ねえ、私臭くない」って聞いてたのは衝撃。群馬出身の彼女とは以降良い関係。実家の中華料理屋にも社員の打ち上げ旅行でお邪魔した。酔っ払うとキス魔になるチャーミングな人。弟切草では、動画の演出部分を担当した。館の炎上シーンは高評価された。

以前に、石原恒和さんのところで、企業向けにイベントのプローモーション動画を、スーファミで作ったことがあって、中村社長はそれを評価してくれたみたい。付き合いの最初はモノポリーだけど。

完成後、深夜に山名くんと社長室に忍び込んで、秘蔵のブランデーを空けた。明け方に、山名くんの黄色いコルベットで千駄ヶ谷まで送ってもらったのは良い思い出。ゲームとしては異例に、4~5年くらいの長期にわたって売れ続け、最終的に40万本売れた。初のチュンソフト自社発売。1本3千円くらいは粗利があったはずだから、12億円の利益。チュンソフトは勝負に勝ったのだな。



糸井さんが作ったゲーム。いたストを作ってたから、実質3ヶ月で作った。糸井さんが宮本さんの「ゲームの理想は遊園地」という言葉に感じ入り、モノポリーマンションという発想に至る。ずっと、ゲヱセン上野くんが来てくれてて、二人だけで、千駄ヶ谷のマンションに3ヶ月こもって完成させた。夜明けに二人でホープ軒のラーメンを食べに行ったりしたな。

プロデューサ:糸井重里、ディレクター:石原恒和、キャラクター:ひさうちみちお、グラフィック:ウルトラ、作曲:すぎやまこういち、メッセージ・キャラクタ性格付け:戸田昭吾、という豪華なスタッフ。宮本さんに「こういうゲームは任天堂には作れない」からと歓迎してもらった。

ウルトラは、当時人気のウゴウゴルーガなどの画像制作もやってた会社で、Amigaを使ってた。当時何度か仕事したので、Amigaの画像ファイルは解析済みで、ゲームに落とすコンバータを作成した。

戸田さんは東京糸井重里事務所で、少し自信喪失してた時期。私がユングの「性格分析」の本を貸して、「これを参考に各キャラクターの身上書を作ってください」とお願いした。元ハガキ職人だけあって、お題が出されると異常な能力を発揮した。身上書を元にひさうちさんに作画を依頼。台詞も当時流行ってた「ツインピークス」に触発されて、ゲームが進むに従って各キャラクタの関係性が徐々に明らかになる縦糸も仕組んだ。台詞は糸井さんにも褒められてたし、ゲーム業界でやっていける自信になったと思う。

開発費の前金で千駄ヶ谷のマンションに引っ越し。そこで開発してた。開発後、このマンションで元ナムコの友達を呼んで、料理を作って飲み会を開いてたのがひげひげ団の始まり。

モノポリーの売上は8万本程度。SFCは16ビット演算が出来たので、64ビットのM系列乱数を使用。トミーから、サイコロの目を操作してくれと依頼の電話があったが、会話中に切ってしまった。事務所のスタッフが驚いてた。まぁ、お陰でトミーからの依頼は来なくなった。モノポリー2でも操作してないそうです。



チュンソフト時代

恋人が歌舞伎町に店を出すと言うので、お金出したら足りなくなって、チュンソフトで働かせてくれと中村社長に頼んで入社した。「かまいたちの夜」の制作途上、私はまた動画の演出担当。雪を降らせるシーンが難しく悩んでたら、ゲームデザインの麻野一哉さんが雪のシーンが有るビデオを3本を貸してくれた。何度も見て完成。シナリオの我孫子武丸さんには「雪のシーンはずっと見入っちゃうよ」と評価してもらった。

この頃はチュンソフトも徹夜続きでは持たないと気付いて、軌道修正して滅多に徹夜はない優良職場になってた。私は枡田くんというプログラマが退社したので、その後のブース。枡田くんとは弟切草の時に面識があった。ウィンドウズプログラムの本が大量に残されてた。後にゲヱセン上野くんからウィンドウズプログラマを探してると言われ、彼を紹介した。理由が分からず驚いてたけど。ゲームデザイン原田大三郎、音楽坂本龍一のWindows95 用シューティングゲーム「ザ・レジェンド・オブ・エデン2」だと思うんだけど、全く話題にならなかったから、ネット上の記録も見つかんなかった。でも、東京・町田・ニューヨークでネット経由で完成させて面白かったと枡田くんには言ってもらった。彼の美人の奥さんがチュンソフトで働いていて、感謝されて嬉しかったけど。

1995年3月20日に起きた「地下鉄サリン事件」以降のオウム真理教報道では、「かまいたちの夜」のサウンドがやたらと使われた。作曲は加藤恒太・中嶋康二郎くん。売上70万本。

加藤くんとは年齢が離れてるんだけど、若さゆえの反抗心に共感して、仲は良かった。チュンソフトの社員旅行で、オーストラリア・ケアンズに行った時、事前に私のテーマソングを作ってくれて、何度か麻野さんとか賛同者と練習して最終日のプールサイドの食事会で披露した。終わったらシレンのゲームデザイナー冨江慎一郎さんの娘達が花束を渡してくれた。良い職場でしょう?





SS (1998年1月22日)

チュンソフト渾身のサウンドノベル3作め。セガの協力もあり、3班の撮影チームが2ヶ月掛けて実写撮影。最終的に制作費7億円、売上10万本の大惨敗。

私はサブプログラマとして、データ管理一般を担当。巨大なデータを入れるストレージ調達、バックアップシステム、シナリオ解析して、足りない画像・サウンド・フォント・効果等のリストを各担当者に伝え、最終データとしてまとめるシステムを作ってた。あまり評価はされなかったが、自分では大満足のシステムだった。PSへのサウンドノベル移植では、この時のシステムが役立った。

フォントをゲームで使いたいと、フォント会社5社くらいと交渉。最終的にリコーと1書体5年使用で50万の条件を引き出す。街では3書体使うので、まとめて120万で許諾をもらった。ゲームでフォントを購入した最初に近い事例になったと思う。使用してる文字を頻度順に並べ、そのフォントデータをウィンドウズ上でSFC用にコンバートするソフトも作ったので、途中からはフォントデータは自動で制作されるようになった。この時のリコーの担当者には、「街」完成後にCDを送った。取説にクレジットも入ってるし、どういう使われ方になるのか不安そうだったから。凄く感激してくれた。




PlayStation

SS「街」の大惨敗を受けて、発売後1ヶ月ほどのタイミングで中村社長に、高級居酒屋に呼び出され、「街」のPS移植を打診され、引き受ける。その後、六本木の社長行きつけのクラブに行き、社長がトイレに行ってる間に、面白い話を聞いたんだけど、それは別の話。

ひげひげ団人脈で、移植会社を探したら複数ありそうとの感触。私は「街」があまり好きでは無かったので、「弟切草」と「かまいたちの夜」を改めて遊んでみたら、古臭くないどころか、今遊んでも面白いと感じて、サウンドノベル3部作の移植を決断。サウンドノベル・エボリューションとして発売することに。個人的には、遊んだら面白さが分かるのだから「騙しても売る」をスローガンにしてた。

社内で意見を聞いたら否定的で、一番好意的な意見が3本合わせて10万本。私はもっと行けると思ったんだけど、勘違いかもしれないからと、「トルネコの大冒険」の移植も提案。エニックスとの交渉を社長は渋ったんだけど、背に腹はかえられずで「ドラゴンクエスト・キャラクターズ」として許可を取った。利益の半分を持っていかれるんだけどね。

4本のプロジェクトを成功させなければならないので、プロジェクト管理技法として当時注目されてた PMBOK を参考にした。人・物・時間の管理に役立った。全部成功したんだから、これを学んだのは正解だったんだろう。もっとも、実際は可能な限り移植会社とコミュニケーションを取ること、訪問することを心がけた。その辺は日本的なプロジェクト管理術かな。



PS かまいたちの夜 ~特別編~ (1998年12月3日)

水足の会社、北新宿のレナールに依頼。水足は、ゾンビハンターを手伝ってもらった縁だし、ナムコでもそうだったが、私のラッキーカード的存在。しかし、担当プログラマが不安だったので、何度も水足と相談。でも、結果的に1ヶ月前倒しで完成させてくれて、タイトルは変更になったが発売スケジュールをチュンソフトが初めて守ったことで流通では話題になった。

SCEのバックアップもあって、「怖い怖いかまいたちの夜」は40万本のヒット。責任を果たしたことを実感した。でも、まだ3本制作中。移植各社とは、売上に従って1本あたり数十円上乗せする契約を結んでたので、各社は潤ったと思う。まぁ、下請けを大事にし過ぎると批判もされたんだけど。売れないと予想してたくせに。



PS 街 ~運命の交差点~ (1999年1月28日)

ナムコの知り合い河野くんに紹介された、福島のサンテックという、X68000 のグラディウスを作った技術者のSPSからのスピンアウトと言うことでお願いした。優秀なプログラマが二人を筆頭に何人かいて、街の移植レベルも文句なしだった。開発期間中は、月一ぐらいは何日か福島に滞在して、技術的な説明や相談、酒を飲んで交流もした。今も続いてる。正月にも追い込みの仕事中で、担当のプログラマとメールで意見が相違して激しいやりとり、電話で話してクールダウン。マスター直前になって、私がデータ構造をこう変えた方が表示がすっきりすると、内緒で変えてしまった。マスター後に打ち明けたら「もう、そんなことはしないでください」と泣きつかれた。まぁバグは出なかったから、結果オーライだが。

タイトルの「街」、頻繁に目にするゲームタイトルに訴求力が無いのは問題だと思い、副題を付けることにした。抽象的なタイトルだから、陳腐ではあるが具体的イメージが湧きやすい「運命の交差点」を選んだ。フローチャートを付けたり、影モードを付けたり、PS用にアレンジし直したりと、結構手間を掛けたんだけど、売上は10万本。実質的に「街」の続編はなくなった。だけど、SSとPSで20万本だから、粗利は4億円。7億の制作費の半分は回収できた。



PS 弟切草 ~蘇生編~ (1999年3月25日)

河野くんの恵比寿の会社ネクセスに頼んだ。ネクセスには、バイトを10人ほど雇ってもらって、街の実写画像の人物を影化する作業もやってもらった。作業用のPCとモニターは私が百万円持って、秋葉に行き、安くて10台即納を探しだして購入。

フローチャートを付けたかったんだけど、シナリオの長坂秀佳さんに、「弟切草」はそういうゲームじゃないと拒否された。その見解も理解できる。でも、売りが作れなくて難儀した。グラフィック・動画を、社長が探してきた伊藤有壱さんに頼み、彼の紹介の木村俊幸さんに頼んで大幅にバージョンアップ。ちょっと危ないトラブルもあったけど、これも別の話。完成した静止画・動画のレベルが高くて、少し安心した。作業が集中したので、完成は遅れたが満足できる出来。売上20万本。



PS 街 エンディング

「街」には有名人も多数出演。曲は難波弘之が参加、オープニングとエンディングの歌は作詞と歌が鈴木結女。



トルネコの大冒険2 オープニング

トルネコの動画はチュンソフトが以前CMをお願いした白組。



彼が高校生の頃からの知り合いの大堀康祐(うる星あんず)の新大久保のマトリックスという会社に依頼。創設時にナムコからの友達やっさんがSCE社員として助けてた。優秀なプログラマの山本くんがいた。Mくんって出来の悪いプログラマも居たんだが、後にトルネコのメインプログラマと名乗っていろんなゲーム会社に出入りしてた。でも、ひげひげ団員が居るところでは正体バレバレ。最初はSFC版の移植の予定が2として発売することになった。

3Dのキャラクタに堀井雄二さんからOKをもらうのに苦労した。作曲のすぎやま先生には、完成された曲組だからと新曲は1曲だけだったり、翌日マスター入れの日、深夜2時にBGMの音量が小さいとクレーム。修正して、また7時間かけてマスターCD作成とか何かと苦労が多かったが、満足の出来栄え。売上60万本。

PS移植プロジェクトは計130万本の売上で、制作費は1.5億円くらい、ざっと利益は20億円。「街」の失敗からチュンソフトは完全に回復した。



チュンソフトを辞めて「ピカイチ」って会社を作って独立。このゲームのディレクションは引き続き受けていた。同じチームなので楽。シナリオだけ、よりドラゴンクエストに寄せるために、アルテピアッツァの杉村幸子さんを起用。堀井事務所で大学生の頃にアルバイトしてて、昔なじみだし、堀井さんの信頼も厚いから。社内的には反対もあったけど、堀井さんやすぎやま先生には評価してもらった。社内だけの評価では実態を見誤るのだ。



大森田不可止プロフィール

  • 1957年生まれ58歳。仙台出身。仙台一高、東北大学理学部物理学科卒。卒業研究は「タウ・ニュートリノのモンテカルロ法によるコンピュータ・シミュレーション」。この時、在籍した研究室は現在「東北大学大学院理学研究科付属ニュートリノ科学研究センター」となり、カミオカンデの施設で「カムランド」の運営にあたっている。
  • 成績不良で7年掛かって卒業、バイトと麻雀、雀球をやりすぎた。社会勉強は完璧だったけど。結婚しちゃったし。7年生の時、研究室のドクターで柔道三段の猛者が学生のトップとしていたんだが、小学校の2~3年の時の同級生で、仲良しだった。色々教えてもらった。研究室はざわついた。一番の優等生と一番の劣等生が仲良しなんだからな。お陰で、卒業研究は乗り切る。持つべきものは友達ですよ。
  • 留年仲間がナムコを見つけてきて「何年留年してもいいじゃないか」のコピーで求人してた。会社見学に行って、迷路脱出ロボットマッピーに惹かれて入社を決断。内定が出てから、ゲームセンターで遊びまくった。紹介してくれた友達には、ウチの研究室に求人に来てた、ソニーテクトロニクスを紹介。彼はそこに入社。持つべきものは・・・1983年にナムコ入社のため上京。
  • ゲーム制作で行き詰まった時は「日経サイエンス」「数学セミナー」を読んで、インスパイアされてた。

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  • 「マザー2」の「どせいさん」のモデル。鼻と眉毛だけだと思うけど。キャラデザの大山さんが、私がコンピュータ用語を使うと、「何言ってるか分かんない」って不機嫌になったので、ネタにされたと思う。当時、スキンヘッドで、酔いつぶれると頭に落書きされたし。

  • 荒井清和さんに、10年位前に、描いてもらった肖像画。当時は山本一郎くんの会社に荒井さんとともに在籍。

  • 20年位前に、荒井さんの漫画に登場した大森田。 すみません、23年は嘘です。語呂が良かったから当時はそう言ってた。

  • 20年位前の吉田戦車さんの「一生懸命機械」第4話の「フォト三郎の夢」に登場した大森田君。 当時、糸井事務所の伊豆旅行で、ソフトボールをして、私は4打数4安打。最後は、宮沢りえちゃん(サンタフェ撮影後、出版前)が守るライトを狙って流し打ちまでしてた。参加者には、さくらももこさんや任天堂の宮本さん、ゲームフリークの田尻など。吉田さんは雨で道が通れなくて不参加だったんだけど、聞きつけて描いてくれたんだと思う。いたストも評価してもらったし。

  • NHKの「英語であそぼ」の18年位前のキャラ、トニー・トースター・オーブン。友達のみさよちゃん作画。

  • 1991年7月14日朝日新聞夕刊に載った記事。モノポリー大会で優勝したので取材された。

  • 1995年に「噂の真相」に載った記事の抜粋。私関連は、固有名詞がことごとく間違ってます。なんか影の首謀者みたいな書かれ方で、私個人は面白がっていたけど、ぶんか社は信用不安になり、銀行に説明に行ったり、大変だったそうだ。

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5月1日のイベントでの質疑応答(多少脚色)

  • 質問「何でゲーム会社は良く潰れるんですか?」
  • 答え「チュンソフトは7億円使った後でも、復活する体力があった。例えばチュンソフトは『3年無収入でも持ちこたえる』と言ってた。任天堂は内部留保が1兆円あるので百年は安泰。浮き沈みの激しい業界なので、失敗に対応できる体力が必要。一発当てただけだと、体力がついてなくて、次が売れないと持たない。」

  • 質問「リセットボタンを押すと、別のメッセージが出てくる仕組みは?」
  • 答え「ファミコンもスーファミもメモリはSRAM(Static RAM)です。電源オンの時はランダムな値になるけど、リセットでは値が保持されます。だから、SRAMにリセットするべきページになったら、4バイトぐらいの値を書き込んでおく。ページが過ぎたら別の値を書き込む。それをチェックすることで、そのページでリセットしたかが分かります。ギャラクシアンの裏ワザでも使われてたテクニックです。我孫子さんは、詳しいことは分からなかったと思いますが、事前に十分検討してたので、アイディアはあって、チュンソフトのサポートで実現したのだと思います。」


Last Modified:2017/02/08 08:58:05 from ELITEDESK by omorita